HE IS A 2

 最高気温予報は三十五度、セミやら何やらの虫が元気に鳴く世界からナイフで切り分けられたように、カーテンを閉め切ったマンションの一室。の中の、密室のバスルーム。で俺が何をしているかというと、セックスの準備である。シャワーを浴びながら水流の音に紛れて息を吐く。
 この一人の時間が、いつまでも緊張する。泡が流れた後も湯を止めずにただ全身で受け止めながら、悪あがきのような時間を作っていた。
 三ヶ月の間で何度か訪れた彼のバスルームには、少しは慣れたけど。この時間は、自分は性的な触れ合いというものが世界一不得意なんじゃないかという気がしてくる。まず裸が恥ずかしいし、変な声が出るのが恥ずかしいし、後始末をするのが虚無だし、憂鬱なことを挙げていくときりがない。
 何より俺の知らない俺を俺ではない人——顔がきれいで、完成された雰囲気たっぷりで、年下で、危なっかしい、獄本ルイという男——に暴かれてしまう感覚が、たまらないのだ。
 しかもルイくんは初めから全部を知っているみたいにそれを受け入れる。肯定する。慰める。それが、少し怖い。
 だらだらと時間を引き延ばしていても意味がないことはわかっているから、諦めてシャワーを止めた。アイボリー色のタイルに沿って水が流れていく。
 身体を拭いて脱衣所でTシャツとパンツを身につける。下着も人に見られたり見せたりすることなんてなかったから、気を遣って、ファストファッションの店舗で適当に買ったやつではないものを選んでルイくんの部屋に置かせてもらっている。
 髪をざっと乾かして部屋に戻ると、先にシャワーを済ませていたルイくんはもうベッドに寝転がっていた。俺に目を留めると、嬉しそうに目を細めて笑った。
「おかえりなさい」
 ああ、この瞬間——緊張が最高潮に達してぎこちなくベッドの隅に腰を下ろす。「なんでそんな端にいるんですか」。ほら、もう後は彼のペースだから……。心の中で誰かに言い訳を繰り返して、伸びてきた彼の腕に無抵抗で包まれる。
 弱い冷房の風に当たっていたルイくんの肌はひんやりしているのに、触れ合ったところから熱くなっていく。シャワーを浴びたばかりの俺の体温は高いけど、それだけじゃない気がしている。
 少し傾げたきれいな顔が近付いてきて、うう、と思いながら目を閉じた。唇に柔らかな感触。心臓が口から飛び出してしまいそうだ。濡れたものに隙間をつつかれて、そっと開く。がちがちになっている俺の背中をなだめるようにルイくんの手がさする。
 与えられて、奪われていく。そんな気分になりながら、俺もキスに応えようとする。
 キスをするようになって、口の中にも気持ちいい場所があることを知った。上顎の、上の方から歯列の裏の手前にかけて刺激されると、むずむずした快感が走る。
「ん……」
 鼻にかかった吐息が漏れて、二人の間の空気が色を変えていく。背中に回されていた手が頬を滑り、俺の耳を塞いだ。すると、ちゅ、くちゅ、と小さく鳴っていた水音が頭の中にも響いてくるように感じて、ぶわっと顔が熱くなった。じゅっ♡ と音を立てて舌を吸われる。
「ふ、うっ……、ん、ちゅ、ン……、ぅ、っ〜〜、はあっ、ごめ、ちょっとストップ」
 うまく息ができなくなって、俺はルイくんの肩を押し返してしまった。はあ、はあ、と大きく呼吸を繰り返す。酸欠で頭がくらくらして何も考えられない。
 雰囲気を台無しにしてしまった。いつまでも初めてするようなぎこちない反応しかできないのが申し訳なくなり、慌てて頭を下げる。
「ご、ごめん……全然、慣れなくて……」
「ん、いいですよ」
 気分が変わりやすい彼の機嫌を損ねるのではないかと不安だったが、気にしていないように見えたのでほっとした。飲み込みきれなかった唾液を嚥下して彼に向き直る。と、ぐいっとベッドに押し倒された。
 いつまで経ってもそれらしいふるまいができない、されるがままの俺に対して、ルイくんはすごいと思う。
(ていうか、聞いたことないけど絶対童貞じゃないよな……)
 そう考えると……そう考えると、なんだろう。
(落ち込む?)
 じわりと浮かんだ黒い染みみたいな感情に自問していると、ルイくんが服の上から乳首に触れて、思考が霧散していく。
「わ」
 油断していたから刺激に声が出た。薄いTシャツだから勃っているのが明らかにわかるので恥ずかしい。俺の上に覆い被さったルイくんが悪戯を企てるようなわくわくした表情でTシャツを捲り上げる。
「えい」
 中指で勢いをつけて胸の先を弾かれた。
「っ!」
 痛みとともに強い快感が走って、腰に甘い疼きが生まれた。反応を見て間髪入れずに何度か繰り返される。
「ぅあ、それやめてっ……♡ い、痛いよっ……♡」
 胸の先はもう硬く尖って熱を持つ。
「えー、痛いだけじゃないですよね?」
 ぱんぱんに充血したそこに今度は舌が触れた。髪を耳にかけながら俺の乳首に舌を這わせるルイくんは、挑発的な視線を向けてくる。少しざらついた初めての感触が気持ちいい。
「ん……、先輩、なんか考えてますよね? 集中してほしいです」
「ぁ、ご、ごめんっ♡ 集中、するっ……、から……!」
 柔らかくて温かい舌に包まれて、時々くりくり♡ と強めに押し付けられるとたまらなかった。何もされておらず柔らかいままだった右側の乳首も指先で勃起させられると、次はそちら側に舌が触れる。
 ちゅ、と吸うような音を立ててルイくんが顔を離した。冷房で冷えた空気が濡れたところに当たって変な感じがする。
 ルイくんの指がつうっと胸から下に降りていく。わざと期待させるみたいに、触れるか触れないかのところで、お腹、臍……となぞっていって……もどかしくて腰が少し揺れてしまうのが恥ずかしい。
 下着を脱がされ、ゆるく芯を持っていた性器が晒される。
(だめだ、恥ずかしがるな……今更だ)
 顔を覆ってしまいたくなったが、我慢して身を任せる。するすると下ろされた下着が脚を通って完全に取り去られた。
 ルイくんがローションを手に取り、擦り合わせて音を立てた。人肌に温めてくれているのだとわかるが、耳からも犯されているような気分になってちんこがまた熱を帯びた。
「触りますね」
 呟きとともに、ちんこの先がぬるぬるの指で覆われる。直接的な快感に、腰が引けて姿勢が維持できなくなりそうになるが、同時に後ろにも指を挿入されて、背中が突っ張った。
「あ……」
「痛くないですか?」
「大丈夫……」
 細くて長いルイくんの指が、粘膜の中に入ってくる。縁に引っかけるように指を曲げて、拡げるような動き。蠢いて、ローションを時々足しながら、前もあやすように触れられる。そうされると、内臓を探られている異物感を忘れてしまうくらい、気持ちよさとどきどきで頭がいっぱいになる。
 そして、自分が何に期待していたのか思い知ることになる。
「あ゛ッ……♡」
 前立腺。セックスのたびに開発を進められて、そこをとんとん♡ と刺激されるだけで、頭の中がスパークするみたいに快感が弾けて指をぎゅっと締め付けてしまう。
(そこ、いっぱい、触ってほしっ……♡)
「っ♡ あぁっ、っあ、ぅ、〜〜っ♡」
 とんとんとん♡ と容赦なく責められ、かぶりを振って喘ぐ。耐えようと、力の入らない手に力を込めて拳を作ろうとしたけどだめだった。
「んふ、先輩、かわいいです」
 ルイくんは囁きながら、右手は前立腺を、左手は人差し指と親指で輪を作って、すっかり天を向いたちんこを刺激している。そちらでは亀頭ばかり責められて、すぐ達してしまわないくらいのじわじわとした快感に、器用だなと思うと、忘れかけていたことが再び頭の中で輪郭を結ぶ。
 ルイくんはセックスがうまい。絶対経験があるんだと思う。
 いつも俺をめちゃくちゃに乱して暴くこの手が、かつて誰かの肌を同じように撫でて、甘やかして、導いたのだろうか。
(そう考えると、やっぱり、落ち込む)
 俺は彼しか知らないのに。俺は彼に人生めちゃくちゃにされているのに。
(違う、嫉妬や羨望なんか……じゃない、はず)
 そう考えたところで、ルイくんの指がもう一本増えた。
「やっ、あぁっ♡」
 増えた指はもちろん前立腺に伸びる。指で挟むようにぐりぐり♡ と押し込まれて、喉が引きつれたような嬌声が漏れた。
「あ゛ぁ〜〜っ♡ あ、ひっ……♡ ぅあ、あぁっ♡ はぁあ゛っ♡」
 頭の中が暴力的な気持ちよさで上書きされていく。身体中が、ちかちかと、見えそうで見えない絶頂の兆しを全身で追いかけているイメージに支配されて、情けない声を上げてしまう。
「んっ、う♡ っうぅ、は、あぁあっ♡ あぁ〜っ……♡」
「……今日の先輩、なんかずっと難しい顔してます」
 俺を追い詰めながら、そんな気配は感じられないような、つんと唇を尖らせた表情で言うルイくん。重い前髪の間から、じっと見つめられる。
「さっきの映画、怖かったですか?」
 そうだ、お昼からさっきまで、二人で韓国のサスペンス映画を見ていて……じゃなくて。
 ルイくんのことを考えているのに、ルイくんに思考を取り上げられる。
 与えられて、奪われていく。
(俺は、君とちゃんと話が——)
「あ、あっ、だめ、いく、いくッ! だめっ、い゛、くっ……♡ ぅうぅ〜〜っ♡」
 目をぎゅうっとつむって、瞼の裏に星が弾けた。腰を突き出した恥ずかしい姿勢のまま、尿道から精液が溢れる。びゅく、と勢いよく出た後、とろとろと押し出されていく。
 は、は、と全身で呼吸を繰り返す。心臓がどくどくと激しく動いているのを感じながら、柔らかな倦怠感に包まれる。腰を上げていられなくて、シーツに身体が力なく沈む。後ろはまだきゅうきゅうと震えている。
 絶頂の余韻で何を考えていたのかわからなくなる……。ルイくんは視線で犯すように、俺を熱っぽく見つめていた。
 彼が自分のパンツを下ろす。ゆっくりと、見せつけるように数回扱く。目が離せなかった。そのままスキンをするすると付けて、脱力した俺の膝を抱えて開かせた。
「あっ……♡」
 媚びたような甘えた声が出てしまった。あんなにセックスが憂鬱だったのに、後は引力に逆らえない。
 ルイくんがうっとりと笑った。
「……はは」
 硬いちんこがあてがわれる。今から挿入されちゃうんだ……♡ 俺を見下ろす瞳と目を合わせれば、頭の中まで支配されたような気持ちになって、また甘い電流が胸にちかっと閃いた気がした。
 ぐっと腰を押し進められる。丁寧に愛撫されたそこは歓迎するようにちゅ、と収縮を繰り返して応える。勝手にそうなってしまうのが恥ずかしくて、俺は唇を噛み締めた。
「あ、あッ!」
 でもすぐに、またあられもない声を上げてしまう。彼が思っていたよりも性急に中に侵入してきたからだ。内臓が割り開かれる感覚さえイった直後の身体は弱い快感として拾い上げてしまう。
「せんぱいの中、気持ちいいです」
 ゆるゆると腰を揺すりながらルイくんが呟く。そしてまた腰を進める。
「あ゛ぁっ♡」
 前立腺を硬いものが擦る。喉を反らして耐えると、ルイくんはそこばかり突いてくる。
「んお゛っ♡ お゛っ……♡ あ、やっ♡ ぅあ゛ぁっ♡」
 俺のちんこはもはや完全に復活して反り返っている。前立腺への強い刺激が繰り返されて、先からだらだらと先走りを零して喜んでいる。
「先輩、好き、すきっ、ぁ、ふっ……♡」
「やぁ゛っ! あっだめ、だめっそれっ……♡ ひ、うっぅう〜〜ッ♡」
 俺の中に突き立てられた性器が前後する。気持ちいいところを悪戯に擦られながら、好き勝手に俺の身体を使われている感覚になる時、一番興奮する。
「先輩はー、なあんにも考えなくていいですからね……♡」
 甘ったるい声で何もかもが取り上げられる。そしてなんにも残らないただの俺が、ルイくんに肯定されて、新しく形を作り替えられる。その瞬間がぬるま湯に包まれているように心地いいことが、理由になる。
 それでも今日の俺は、残滓のように少しばかりの抗う意思が残っていて、頭で考えるより先に彼をぎゅっと抱きしめていた。力の入らない腕で苦しくなるくらい抱きしめた。
 ルイくんは俺の行動に少し目を丸くしていたけど、いつものように笑った。
「かわいい」
 吐息のような独り言が耳元でした。俺を抱えるようにして腰を揺すっていたルイくんは、しばらくして背中をぶるっと震わせてスキンの中に射精した。掠れて吐精に酔う声を上げた彼と、俺の喘ぎ声が混じり合って、俺も全身の神経がぐちゃぐちゃに混線したみたいになってイってしまった。

 てきぱきとベッドに敷いていたバスタオルを洗濯機に入れるルイくん。「先輩は何もしないでいいですからね」と言われたので、俺は言葉に甘えてお茶の入ったコップを片手にパンツ一丁でベッドの端でへたり込んでいる。べたついた腹の周りはウエットティッシュで拭いてもらったが、気分的にはまたシャワーしたいところだった。セックスというものはなんて無駄足ばかりなんだろうと、多少回復した頭で思っている。
 それで、なんだっけ。考えていたこと。思い出そうとすると背筋が痛んだ。
 ぼうっと宙を見つめて考えていると、視界に後始末を終えたらしいルイくんがずい、と入ってきた。瞬きを繰り返して焦点を合わせると隣に座ってくる。
「ふふ」
 上機嫌な様子のルイくんは、最中はTシャツを着ていたのに、いつの間にか俺と同じ半裸の姿になっている。
「見えますか、これ」
 くるりと後ろを向いた彼の、肩甲骨の間くらいに、三日月型の赤い跡が何個か残っている。皮膚を破ったりはしておらず、ただ強く押し付けただけのような傷でもなんでもないそれは、
「先輩がギュッてしてきた時に、つけてくれたんです」
 背中に爪を立てた俺によるものだった。
 またこちらに向き直って顔を見せた彼の頬は薔薇色に染まっている。
「嬉しいです。ふふ」
 独特の感想を口にしながら、自分の分のコップに口をつけて、喉仏が上下するのを見て俺は——なぜ自分がそうしたのか、思い出せなかった。
 セックスをしている間、何かがずっと引っかかっていたはずなのに、ちゃんと思い出せない。
 ただ、彼の手が紡ぐ快楽に何も考えずに溺れてしまうことも悪くないと、諦めたこと。
 彼とのセックスは気持ちいい。俺を全部曖昧にしてくれるからだ。
 責任を取ったり、決断をしたりすることが苦手だから、曖昧なことに安心する。いつも振り回されてばかりの彼に何も言えないのも、曖昧なことが気持ちいいからだ。それが、俺の秘密。
 ……彼の背中に爪を立てた時、俺が言いたかった言葉を言えていたら、今どんな会話をしていたのだろう?
 思い出せないならせめて……ぬるま湯に立てた小さな波が、波紋になって少しでも長く残れば、何かが変わるのだろうか。
 そこまで考えて、脳のバッテリーがなくなったみたいにうまく働かなくなるのを感じる。瞼がとろとろと重くなってきて、彼の肩にそっと頭を預けた。
「疲れました?」
「うん……眠い……」
「じゃあ服着て、寝ちゃいましょう」
 手渡されたTシャツを緩慢に受け取る。
 時計を見たら午後四時を指していた。カーテンの向こうは厭わしいほど明るいままの、嫌いな夏だった。