目が覚めると見知らぬベッドの上にいた。頭がぼんやりして、ここがどこかわからない。しばらく頭をもたげてようやく昨日の出来事を思い出した。そうだ、飲み会で酔って、ルイくんの家で休ませてもらうことになって……それで……それで……?
「……おはようございます」
隣から聞こえてきた声に心臓が止まりそうになった。寝起きであろう、掠れた声で挨拶をしてきたその人は紛れもなく昨日俺にレイプまがいのことを働いてきた男だ。
「えっ、あ、え……!」
顔に熱が集まったかと思えば、さっと冷えていく。そうだ、昨日俺は……。
――じゃあ俺が彼氏でいいですよね。俺のこと先輩の一番にしてくれる?
――わ、わかった……つきあう……。
「う、うわああっ」
とは言わなかったが、キャパオーバーなくらい甘ったるいような会話をしたことを思い出して叫びだしそうな心地だった。
俺は顔を赤くしたり青くしたりしているが、しかし当のルイくんは、昨日の様子が嘘のようにつまらなそうな顔でスマホを触っていた。
「……先輩が起きたら言おうとしてたんですけど、」
「……、っ……、……」
何を言われるのか予想できない。身体が強張って息が詰まる。
「もういいです、彼氏とかそういうのも、昨日のこと全部」
「……は!?」
色々な感情が体の中を駆け巡って浅くなった呼吸も忘れて、素直に驚いてしまった。
「だって俺と話してたのに……眠いからって無視して寝たじゃないですか」
そう言って顔を逸らした。完全に怒っているようだった。
「ご、ごめん。あの……迷惑かけて……」
とりあえず謝罪する。しかし一切こちらを見ようとしない。
いや、昨日のアレは俺の人権が無視されてめちゃくちゃなことをされていたと、今ならわかる。一連の行為で自分優先で話が進むのが当たり前だと考えているなら自分本位が過ぎて、頭がクラクラしてきた。
それに、もういい、ってなんだ。話してたというか、急所を人質に無理矢理口にさせていた行為だろう。
なんなんだ、この男は。認知が歪んでいるとしか考えられない。
「あの、俺、」
「別にいいです!」
怒った声色で遮られて、反射的に身体がびくりと跳ねた。怖い。
「……でも!……あーもう、……」
彼のそういうことを続けたいという意思に向き合えず寝落ちてしまった俺に不満を抱いているのは明らかだった。
そんな横暴まかり通るだろうか。絶句する。
そもそも初対面の人間に無理矢理襲われたのは俺だ。なんなら泥酔したところにかこつけて行われた最低の行為だと思う。それなのにルイくんの思考回路では俺が悪いことになっている。怒りたいのは俺の方である。怒りたいし、なんなら泣きたい。
今すぐ文句の一つでも言い返したい気分だが、唇を舐めて慎重に言葉を選ぶ。
「えっと……昨日ルイくんが、したかったことに付き合ってあげられなかったのはごめん……」
……なんで謝ってるんだろう。拳をぎゅっと握って続ける。
「酔ってわけわかんなくなってたから、その……でも……」
「……なんですか」
ルイくんの静かな剣幕に押されて身体がびくりと震えた。
めちゃくちゃだ。怒り。恐怖。困惑。呆れ。そんな感情がぐるぐる回って、声も出せない。
でもルイくんが悪いのに、ルイくんが絶対悪いのに……なぜかルイくんが消えてしまいそうなのだ。彼はそのままぽっきりと折れてしまいそうな雰囲気を纏っている。その様子を見ると、考えるよりも先に思わず謝ってしまう。
「えっと、あ……、その……」
「はっきりしてください」
「うん、ごめん……えっと、昨日のはなかったことにして、ください……」
勢いで言ってしまった。でもこれが一番平和的な解決方法だろう。
というか俺にとっては譲歩もいいところだ。酔って前後不覚になり、ルイくんの言葉を呑んだのは……まあ事実である。強引に身体を好き勝手弄ばれたことも痴態を晒したこともなかったことにして、そしてこれからは、彼がヤバい人間ということがわかったのでなるべく避けて生きよう。という意思が伝わるかはわからないが、そんな気持ちを込めて見る。俺には強く出ることができなかった。
「……えっ」
ルイくんが虚を突かれたような表情で顔を上げる。
「……なんで?」
「ごめん……。でも……そうとしか言えない」
「……う、」
ルイくんの綺麗な眉がぴくっと動いて、表情が曇った。
「ううううううううう」
……なんか、余計癇癪を起こしそうだ。
「……う、うっ……う、ひっ、」
「えっ」
今度は俺が驚く番だった。ルイくんがしゃくり上げ始めたのだ。
「しっ、しっ死っ」
「し?」
「死ぬっ」
死なないでほしいし、死にたいのはこっちだと言いたかった。
「先輩のせいです」
……ルイくんの思考回路は俺にはまったく理解ができないものであった。
俺より長身で二十歳の男が背を丸めて、ぼろぼろと涙が頬を伝う。その姿を俺は呆然と見つめている。
頭が痛くなるような状況にただ途方に暮れるばかりだ。
他人を自分の思い通りにするために感情的なふるまいを取り、そして抑圧しようとするのは、昨夜の会話と同じものを感じる。
彼のことが理解できない。思い通りにならなくて癇癪を起こす様子はわがままな子どもだ。でも、そのアンバランスな幼稚さに同情のような気持ちが芽生えていた。そして、深淵に引きずり込まれるような、破滅的な魅力も感じていた。かわいそうで、庇護欲みたいな――俺ならなんとかしてあげられるんじゃないかという、優位性みたいな――不健全な欲が胸の内でちりつくのを感じる。
彼がどんな思考回路でどんなふうに俺を想っているのか想像できない。昨日は好きと言っていたけど、今は何を考えているのかわからない。それでもこの状況を引き起こしたのは俺だ。そしてどうにかできるのも俺しかいない。
反射的にルイくんの手を取った。
ルイくんの身体がいっそう震えた。
「ぅっ、ひっ、うぅっ」
ああ、どうしよう。一か八かしかない。
「……ルイくんのこと。……好きだから。……取り消すよ。一番にちゃんと考え、る……」
息を吸って口に出した。昨日、彼は「俺の一番」にこだわっていた気がする。自意識過剰かもしれないけれど。
俺からの「一番」が、好意が、そんなに嬉しいのだろうか。
それとも好意を与える他人なら誰でも良いのだろうか。……いや、今は余計なことを考えている場合ではない。想像の中の彼ではない、目の前にいる彼に向き合わなくてはいけないのだ。
彼は俯いて鼻をすする。
「ほんとですか? 本当に考えてますか?」
「考えるよ。……だからそういうことはやめてほしい……」
「……そういうことってなんですか」
「……死ぬとか言うこと」
「……」
「その……ちゃんとする……」
「……」
「か、彼氏……だから……」
言ってしまった。
言わされてしまった。
契約書にどんと、重い判が押されたようなイメージが浮かぶ。
するとルイくんはさっきまでの態度とは一転して、涙を払って笑顔を浮かべる。力強く俺の手を握り返す。
「……あは! 嘘に決まってるじゃないですか」
「う、嘘って」
嘘って。
「だって俺の言うこと聞いてくれなくて嫌だったんだもん」
あっけらかんと言うルイくんの表情に、怒りの言葉も出ないくらい呆気に取られた。徐々に現実を理解して、脱力する。
ああ、俺はとんでもない男に捕まったんじゃないか。そんな気がしてならない……。足元ががらがらと崩壊していくような感覚に陥った。
ご機嫌な様子のルイくんは俺の腕を取って顔を近づけてきた。
「今日から頑張りましょうね。先輩は俺の彼氏ですもんね。まずはデートから」
そう言って指を絡ませる。
「あと、俺以外の前でお酒飲まないでくださいね」
彼の手はずいぶん冷えていて、ぞくりと鳥肌が立った。思わず顔を上げる。少し高い位置から覗き込む、長い睫毛に囲まれた目と目が合う。
本当のことをすべて見透かされてしまいそうな引力を持っていて、目を逸らしたいのに離せなくなった。
触られると理性がなくなってしまいそうになることも。身体の気持ちのいいところも。
ルイくんと過ごすいくらかの日々には自分でも知らない俺が待っているような気がする。それに恐怖以外の感情が芽生えていることを示すように、鼓動が速く胸を打った。