傍若無人な女装コンカフェバイト×自意識過剰な陰気オタク。
チャイムが鳴って、教員の一声で学生がめいめいに解散していく。
昼飯行こう、次の教室どこだっけ、そんな会話が俺を通り過ぎていく。
ありふれた三流大学の風景。
その中にいる、ありふれた陰キャだ。
恋人なし、友達なし。いや、SNSの大学垢で繋がっている同じ大学の相互フォロワーはいる。……まだオフで会ったことがないだけで。
四月にぐいぐい勧誘してくる先輩たちのこともスルーしていたからサークルにも入りそびれた。……元々目当ての団体もなかったので気にしていない。
それでも俺のような奴なんて他にもいくらでもいるだろうからなんとかなるはずだと思っている。
そんな代替可能な大学生。
ノートパソコンをリュックにしまって席を立つと、いつも最後列を陣取っている集団が、何か爆笑しながら教室を出ていくのが見えた。その中の一人に目が留まった。
赤神玲王。
形のいい横顔。
同じ学部で話したこともないが、俺は、今笑って奴の背中を小突いている名も知らぬ陽キャAより奴を深く知っている自信がある。秘密を知っていると言い換えても差し支えないかもしれない。
そう、あいつがコスプレコンセプトカフェでバイトをしていることを!
二ヶ月前、学部のオリエンテーション。教室では、まだ入学して間もない頃だからあいつも一人でいて、その頃から派手な髪色をしていたから怖っ、とか思って、後ろの席を選んで腰かけたことを覚えている。
その時スマホの画面が見えて、俺も長く使っているSNSのタイムラインが表示されていた。
そう、興味本位だったのだ。俺は人よりインターネットに長けている自覚があって、これまでも同級生のアカウントや趣味垢で繋がっているフォロワーの居住地などをたびたび特定したことがあった。もちろん悪用はせず、一人で眺めてうわー、とか思うだけだ(なんかこういう言い方するとキモいな)。だから今回も先行ブロックしてやろう、くらいのつもりだったのだが――。
「れお☆すたちる」それが赤神玲王のアカウントだ。すたちるというのは店名「すた~☆ちるどれん」のことで、渋谷にあるメンズコンセプトカフェだという。コンカフェでバイトしてるくらいなら今時珍しくもないのかもしれないが、この「すたちる」は女児服をテーマにした女装コスプレが売りらしいという点が、俺の昏い興奮を煽った。
「れお」のアイコンは、小学生みたいなポップでファンシーな女装をしたフェティシズム感の強い自撮りだった。
ゴールデンウィークも過ぎれば同じ授業を取っている学生の顔も覚えてきて、赤神は見るからにカーストの上位そうなグループにいたから目立っていた。
あの、内輪ノリの動画で一生ウケていそうな集団とつるんでいる男が、放課後はこんなコスプレをして女とチェキを撮ったりしている。それを何の関係もない俺だけが知っているという事実に意地の悪い笑いがこみ上げそうになる。
そうして俺は、「れお」の投稿を毎日チェックするのがいつの間にか日課になっていた。
『今日もたくさんのご来店ありがと 次は十七日 待ってる』
ピンクのトレーナーに光る変身おもちゃを口元に当てた胸から上の自撮り。
今日も俺は深夜に投稿された文章を見て心の中でニヤついていた。「れお」というキャラクターの同一性を保持するために見てもいないであろうアニメのおもちゃをわざわざ購入する承認欲求が哀れだ。
詳細を確認してからホーム画面に戻る。俺はわざわざそれっぽい偽装アカウント――アイコンは拾い画のマスコットキャラクターのイラストで、名前は「あ」みたいな何も投稿していない鍵付きアカウント――でフォローして投稿があれば通知が来るように設定していた。ここまで執着している自分について、まあ我に帰る瞬間もあるが、それだけあいつは面白いオモチャなのだ。
切り替え画面からリアル用の大学垢に飛んでタイムラインを眺める。
『絶起』
『教室遠いンゴ』
適当にいいねを飛ばしていると教員が入室してきたので画面を消して机上に置いた。
講義が始まる。いつも通りに。
そう、いつも通りだったはずなのだ。
チャイムが鳴って教員が退室して、学生が一斉に立ち上がる。荷物をまとめようと腰を浮かすと、いきなり後ろから歩いてきた人間が大きな音を立てて隣の空席に座った。
反対側の空席に置いていたリュックの方を向いていた俺はぎょっとして肩をすくめた。
なんなんだ。
退路を断たれるみたいに通路側に腰かけられたので動くことができない。振り返ろうとすると後ろから声が飛んできた。
「学食行くんじゃねーのかよ」
「あーごめん、俺用事あるから」
その返事を聞いて俺は文字通り硬直する。隣にいるのは、赤神玲王だった。
「用事ってなに?」
「んー」
赤神は自分を呼んでいた陽キャBの方を向いて返事をしていたのだが、
「……な、あるよな?」
……俺は背後から心臓を直に掴まれたのではないかと思うくらいビビった。明らかに俺の耳元で、赤神はそう言ったからだ。
ぎぎぎ、と音がしそうな油の切れた機械のような動きで振り返ると、赤神は「じゃ行くわー」と去っていく陽キャBにひらひら手を振っていた。
それが終わると、こちらに向き直る。初めて正面から顔を突き合わせたけど、顔がうまく見れなかった。
「ちょっと顔貸せるよな? えっと――お前の名前、何?」
脚が、写真の中でポップでファンシーなミニスカートから伸びているのを何度も見た脚がゆったりと組まれるのを他人事のように俯瞰した自分が見ている。俺は冷たいものを背中に伝わらせながら口を開いた。
「西園謙です……」
どこに連れていかれているのかはわからないが、あれから場所を変えるよう促されて、赤神の後をついて大学の外まで来ていた。
「あ、あの……誰にも言わないので……」
「あー、まぁ、そーゆーのいいからさぁ」
「……」
……そういうのいいから、何?
俺はどこに向かっているのだろうか。そもそもこの状況は何なのだろうか。
疑問は尽きないが、言葉にも態度にも出せないまま、六月の湿気に汗を滲ませながら背中を追う。
赤神は、今日は黒いオーバーサイズのTシャツに太いシルエットのトラックパンツを履いていた。コスプレではない格好の赤神を意識してちゃんと見るのが初めてで、こいつって結構背が高いんだなぁと場違いなことを思った。
それから十分くらい歩いただろうか。大学の近くだから左右に似たような学生向けアパートが立ち並ぶ中、赤神はとある敷地にずかずかと入っていく。入口で立ち止まっていると、「早く来いよ」と声をかけられたので小走りで追いかけた。
四階の部屋の前で止まって、リュックのポケットから派手なゼブラ柄のキーケースを取り出す。
「ちょい待ってて」
紺色のドアは俺を置いてバタンと閉まり、知らないアパートの廊下に放置された。
「……」
当惑していると、再びドアが開けられる。
アニメのキャラクターがプリントされたピンクのトレーナーに、レースに縁取られたハート型のポケットがついたデニムのミニスカート。ボーダーのニーソックス。おもちゃのようなきらきらしたヘアピンをたくさんつけた前髪を揺らして、赤神はにやりと唇を歪めた。
「れお」がそこにいた。
「へぇー、これがお前ねぇ」
赤神の部屋に通された俺は、フローリングの床に正座していた。一人暮らしらしい普通のワンルームの部屋に、仁王立ちの赤神。
そこで俺が「れお」のアカウントを特定していることを洗いざらい白状させられた。「れお」をフォローしている「あ」だけでなく、何故か関係ない俺の大学垢やリアルの知り合いに明かしたことのない趣味垢まで露呈する羽目になった。
教室で俺がコソコソしながら見ていたスマホの画面で自分の投稿が目に入ったからカマをかけてみたらしい。お互い同じ状況で相手の秘密を知ったというのがおかしかった。笑い事ではないが。
「お前さ、俺のオタクなんだろ」
俺のスマホをじろじろ見ていた赤神が、手渡しながらそう言う。
「は……?」
「だってさ、毎日俺のアカウント監視して誰にリプ返したかも何いいねしたかも全部見てんだろ? それって俺がすげぇ好きってことじゃん?」
「それは……」
そんなことはない。ないのだが、一瞬言葉に詰まった。
「いや、そういうわけでは」
「ハァ? ……じゃあ黙ってろ」
暴君だ。奴は窮屈そうなミニスカートを気にせず俺の前にうんこ座りになった。
しゃがんでいるのに俺より目線が高い。奴の胸元が目の前に来るから、トレーナーにプリントされている日曜朝に放送中のアニメのキャラクターと目が合う。どこを見ているのかわからない大きな瞳を見つめて現実逃避をする。
と、赤神はこちらに手を伸ばしてきた。何をされるのかわからなくて、思わず目をぎゅっと閉じて顔を反らしてしまった。子どもか。
「おい。こっち向けや」
赤神の手が頬をぺちぺちと軽く叩く。怖い。殴られでもするのだろうか。
最悪なパターンを想像して、一瞬のうちにイメージトレーニングが頭の中で繰り返される。本能的に危険を感じたのか、その時間はきっと一分にも満たないはずなのにとても長く感じた。
知らない他人の匂いがふわりと香った。
(え……?)
俺が間違っていなければ、今、何をされた?
目を開けるとニヤつきながら顔を離していく奴と目が合う。
今はわなないている唇に、さっき、何かが触れた。
何かって、そりゃ、その、唇しかないだろ。
「西園クンはさ、こーゆーこと好き?」
「は、はぁっ!?」
「キスされるのとかさ」
やはり俺は、奴に唇を奪われたようだった。
「す、好きではない! ……っていうか、何っ……!?」
動揺していると鼻で笑われた。
キス。普通は、好意を持っている者同士が睦み合って行うじゃれ合いだ。
俺はしたことがなかった。悲しいかなファーストキスだった。
赤神は自分の唇を舌で舐めて、「じゃあ、まぁ口封じってことで」と言って立ち上がる。
「帰っていいよ」
思考がついていけない。なんだこいつ、なんなんだ。口封じって……俺にも口外できないようなことをして相殺したつもりなのか?
こいつの頭の中が理解できなくてキューが渋滞している。ていうか俺は同意していない。こいつ、性加害者だ。最悪だ。
「早く帰れよ」
「い……言われなくてもっ」
赤神はもはや俺への興味を失ったようだった。本当になんなんだよ、こいつ。憤って、情けなく腰が引けた状態から立ち上がろうとする。
そこで俺は違和感に気づいた。
――これはバグだ。致命的な不具合だ。
身体の中心が、熱を持っている。
心臓がばくばくと嫌に胸を打つのを感じた。バレないようにしなければならないが、俺は最悪なことにスキニーデニムを履いていて、中心が張っているのは一目瞭然だった。一瞬で訪れた緊急事態に頭の中で警報音が回る。
「俺っ……ちょっとトイレ借りたいんだけど」
どうにかここから抜け出したい一心で言うと思ったより大きな声が出てしまい、冷や汗が止まらない。赤神は俺の叫びを聞いてきょとんとしていたが、「そこ」と左側のドアを指を差した。
そそくさと横を通り過ぎて、逃げるようにトイレに入り、ドアを閉めた。
「はぁ……」
そのまま背中をつけたまま、気にせずずるずると床に座り込む。すっかり脱力してしまった。
赤神玲王。とんでもない男だ。俺をかき回してくる。
とにかくトイレでこの暴走が落ち着くまで待とう。
溜息をつくと、いきなり視界がぐるんと回転して、え、と思う間もなく目の前に星が飛んだ。頭を打ったのだ。
トイレのドアが後ろからいきなり開けられたためだった。鍵を閉めるのを忘れていたので、俺はそのまま床に強かに背中と後頭部を打ち付けた。
ドアを開けたのは当然赤神で、俺を見下ろしている。痛みにのけぞっているので、ミニスカートの中身が見えそうである。
先ほどから繰り返される暴虐的な仕打ちに文句も出ない。せめて睨みつけると、奴は俺の前にしゃがみこんだ。
そして一言、言った。
「抜いてやろうか?」
「は……?」
バレている。それを理解して襲ってくる羞恥を飛び越えて、こいつは今、何を。
「じっとしてな?」
返事を待たずに、赤神はひっくり返ったカエルみたいな間抜けな姿勢の俺の下半身に手を伸ばす。
痛む頭を押さえつけていた手を慌てて伸ばすが、時すでに遅く、じじ、とジッパーが下ろされる音がして俺は顔がカッと熱くなった。下げないでください。
あれよあれよと奴の手が差し込まれる。
「やめ、やめろ……」
口をわななかせていると、既に上向きになっているものに下着越しに触られる。かりかりと刺激されると完全に勃起してしまって、赤神が下着の中に手を入れて平然と掴んだ。
「う……」
いきなり速く上下に扱かれて、恥ずかしいのと気持ちいいのが混ざって腹の奥がぞくぞくした。
「あっ……ふ、うう……」
「お前ってさぁ。だいぶ俺のこと好きだな?」
先ほどから確かめるように繰り返されるその言葉。どういう思考回路でそう思っているのかは正確にはわからないが、俺の気持ちとは無関係に反応してしまう身体をとにかく揶揄われているようで、悔しくて恥ずかしい。
「あッ……ほんとっ、ふざけんなって……! だめ……」
ついに目の前が滲んできた。みっともない姿を晒していることから目を逸らしたくて、瞼の上に強く手を押し当てる。
「ひ、ぐっ……」
視界の情報がなくなると、ぐちゃぐちゃとした水音が耳に入ってきて、自分がすっかり限界寸前まで高まっていることに気づく。
「ねぇっ……離してっ……」
「いいよ、出しちゃえよ」
その声色がなぜかとびきり優しくて、なんでだよ、と思った。
射精して力の抜けた身体で、赤神が手を洗っている後ろ姿を見ている。
赤神の手でイかされてしまった。他人に欲を無理矢理暴かれるという経験は、はっきり言って最悪だった。
でもとびきり気持ちよかった。
(いやいや……)
頭を振る。流されてはいけない。
赤神は振り返ってこちらを見つめる。またあの、嘲りが混ざったような薄い笑みだ。
「……うるせぇ……」
「何も言ってないんだけど?」
視線がうるさかったのだ。下半身を丸出しにさせられたからといってバカにするなよな。お前がやったことだし。膝を抱えてそっぽを向く。
「じゃ、今度こそ帰れよ」
「……言われなくても」
フローリングに投げっぱなしにしていたリュックを掴んでばたばたと立ち上がる。もう二度と来ることはないだろう。
玄関でスニーカーを履こうとしたら、なぜか奴もついてくる。
「……何」
「見送りだよ。ドアが閉まるまでは見送ってやるよ」
無視して鍵を開けると、リュックをぐい、と引っ張られた。
振り返るとつんのめって、赤神が目の前で笑ってるのが近すぎる。輪郭にピントが合わなくなった。そして、また唇が触れ合った。
「またな」
肩を押されてたたらを踏む。目の前でバタンとドアが閉まって、即鍵がかかる音がした。
(……なんなんだ……)
知らないアパートの廊下で、頭の中はいっぱいだった。