HE IS A 1 - 2/2

 ルイくんと初めて喋った時、まず思ったのは「接点ないな」ということだった。
『学部は文学部で、英文学のゼミに』
『あっ……俺は理系なんだ。バイオ系』
 今思い返しても、大学生活を送る上での接点がおよそゼロすぎていたたまれない気持ちになる。だからサークルという場所で出会えて嬉しい……とポジティブな人ならきっと思うのだろうが、俺は、見た目も中身も自分とは正反対な後輩に圧倒されていた。それでもなんとか映画の話題で場を繋げられたのは、幸運だったと思う。
 ルイくんとの初対面——映画研究会での新入生歓迎会——を思い出すと、俺がいかにコミュ障かということを身に沁みて感じるからちょっとした黒歴史になっている。映画研究会に来たからには映画が好きなのだろうと思って話をして、たまたま通じたからいいものの、上級生に無条件に奢ってもらえるからという理由で片っ端からサークルの新歓に顔を出す強者がいることは知っていて……。もしかしたらそういう相手に聞かれてもいない趣味の話をしていたかもしれないと考えると恥ずかしくなってくる。
 そういえばあの時ルイくんと好きだと話した映画のリマスター版が、夏休み中に特別上映されるのだ。バイト代で彼を誘って行こうと考えながら、俺は返却された本を棚に戻す作業をしている。
 俺が大学の附属図書館で夏休みの期間限定バイトをやっているのは、ゼミでやっている実験のために休み中もどうせ大学に行かなくてはならないので、ついでの一石二鳥だということと、何より楽ということがあった。
 空調の効いた室内で座って仕事ができるのはありがたいし、図書館の利用者は同じ大学に通う学生がほとんどだからトラブルもない。時給は高くないが、自分が飲食店みたいなところで働けるとは毛頭思えないので二年の時からそうしているのだ(一年の時は塾講師をしていた。コミュ障の俺には荷が重かった)。知り合いが来たらその時だけよそゆきの自分を見られてちょっと恥ずかしいかもしれないが、顔が広いわけでもないしシフト制だからそんな確率も低いだろう。
 と、思っていたのだが。
「貸出でお願いします」
 ……どうやらルイくんの「様子見に来ちゃおうかな」という軽口は本気だったようで、カウンターを挟んで目の前に本を二冊差し出す彼がいる。
「あ……はい」
 こういう時、どう対応したらいいのかわからなくなる。社会性に全振りしている状態の自分を近しい関係の人に見られるというのはどうしてこうもぎくしゃくするんだろう。小学校の授業参観で当てられるのが絶対嫌だったことを思い出す。
「集中の授業の参考資料なので、買う前に中身見てから決めようと思ってて。同じの取ってる他の人に借りられてなくてよかったです」
 何も言ってないのにべらべらと話しかけてくるルイくんはそういうのないのだろうか。ないんだろうな。知らないけど。無視して本の裏表紙のバーコードを読み取る。
「先輩五時までですよね?」
「そうだけど……」
「終わるの待ってるので途中まで一緒に帰りましょうよ」
 今日のルイくんは何かのバンドのやつとかなのだろうか、そんな感じのTシャツを着て黒のバケットハットを被っている。今は五時三十分前だ。
 閉館直前の閑散としていた図書館に、ばたばたと入ってきた女子が目の前を通り過ぎていった。あの人も多分何かを借りるだろうと思ったので、俺は止まっていた手を動かした。
「わかった。待ってもらうけど、ごめん」
「やった。ありがとうございます」
「……はい、貸出期間は二週間です」
 返却期限が印字されたレシートと本を重ねて手渡す。触れ合った指先は夏らしくなくひんやりしていて、彼らしいと思った。

 自転車を押す俺と、隣を歩くルイくん。あれから失くした定期は見つかっていない。七月末の西日は未だ角度が高く、リュックを背負った背中が汗で濡れていく。
「暑いのに、ずっと自転車で辛くないですか?」
「うん。定期、八月になったら新しく作るつもりだから大丈夫」
 直線と大きな円で構成される自転車と人間二人分の影が、真っ黒いアスファルトに大きく伸びていく。
 俺は大学から地下鉄で四駅のところに住んでいて、ルイくんの住むマンションはもっと手前の駅で一回乗り換える。道中は俺たちと同じ学生が多かったが、だんだんとワイシャツ姿の人々が帰宅するのであろう姿が混じってくる。
 ルイくんは思いついたような顔をして「そういえば」と話し始める。
「バイト中の先輩、ちょっと前の先輩みたいでした」
「あぁ、恥ずかしかったから……」
 ルイくんは笑って腕を振って歩いた。大きな瞳が細くなって、上下を縁取る長くて濃い睫毛の距離が近くなる。
「先輩と初対面の時、俺、接点ないなぁって思ったんです」
「え」
 突然ちょっとした黒歴史、に言及されて俺は動揺した。それにあの時彼も俺と同じことを思っていたというのはかなり意外だった。だって——。
「接点ないなら作っちゃおうと思ってあーゆーことしたんですけどね?」
 先ほどの無邪気な表情とは異なり、少し悪戯っぽそうで蠱惑的な笑みを浮かべるルイくんに、俺は赤くなったり青くなったりした。そうだ、だって彼は初対面の俺が泥酔して意識を失ってる間に、その——いわゆるお持ち帰りをしたのだから。初めて他人に裸を暴かれて、触れられて、高められていく経験は、今の俺にとっては苦い記憶だ。
「ほ、ほんとに無理矢理は駄目だからね……!」
 強い非難を込めて彼の方に顔を向けるが、羞恥で声は尻すぼみになってしまう。顔が本当に熱くて恥ずかしかった。
「わかってますよぅ。もうしませんって」
 ルイくんはけろっとした様子でいる。し、信用できない……。
 顔を正面に戻す。ちょうど少し風が吹いて、この熱を冷ましてしまえばいいのにと思った。湿気をたっぷり含んだそれはあまり心地よくはなかった。タイヤが音もなくなめらかに何度も回って前に進む。黙ると、彼も黙って沈黙が続く。さっきから俺たちの間の時間はこんな調子で過ぎていく。
 口を閉ざしてしばらく、といっても三分も経っていないだろう。駅の入口に続く階段が見え始めた頃、信号で足を止めた。
「……なんで俺だったの?」
「え?」
 スマホを見ていたルイくんが顔を上げた。俺はぬるい空気を吸ってもう一度尋ねた。
「接点ないと思ってたのに、なんで俺だったの?」
 俺と彼の関係が恋人たち、の定義に収まるものなのか釈然としないまま、彼のいう「彼氏」になって三ヶ月が過ぎた。その間中、彼が俺のどこに興味を持って、どうして俺を彼の世界の中心に据えるかのように決めたのかをずっと知りたかったけど、触れていいのかわからない気がしていて尋ねたことがなかった。
 今の俺たちなら大丈夫な気がして踏み込んだのは、あるいは夏という季節が持つ勢いのようなものに任せて、だったのかもしれない。
 ごくりと唾を飲む俺。ルイくんは少し見開いた、本当になんでそんなことを聞くのかわからない、といった目で、
「なんでそんなこと聞くんですか?」
 逆に尋ねられてしまった。
 なんで、とは。こっちが知りたいんだけど。
 とは言えず、困惑して答えられないでいると、信号が青になる。
「先輩が、先輩だったからです」
 ルイくんがそう言った。
 それは雑踏のざわめきの中でやけにはっきりと届いた。俺はルイくんの顔を見ていた。ルイくんも俺を見ていた。重い前髪の間から俺のすべてを透かして、導いて、俎上に乗せてしまうような視線。
 後ろを歩いていたサラリーマンが俺の自転車を邪魔そうに避けて横断歩道を渡っていく。
 はっとして、ハンドルを握り直して人々の流れに乗った。
 しかし、よくよく反芻してみればなんだかはぐらかされたような気がしてならず、もう一度声をかけようとした時には地下鉄の入口に着いてしまった。
「じゃあ、先輩。また」
「あ、うん」
 わからないことは結局わからないままで、彼といる時のうっすらとした居心地の悪さはそのままだった。薄汚れた階段を降りていくルイくんが一度だけ振り返って笑った。なんでそんなにすがすがしくいられるのか、やっぱりと言うべきかわからなくて、俺は苦笑して前を向いた。
 夏の赤い太陽はまだ全然沈まない。